津久井やまゆり園で障害者45人が殺傷された事件から3年経ちました。
犯人はいまだ「心失者(重度の障害者の事を犯人はそう表現している)は死ぬべきだ。社会にそれを教えてやった」と言っているようです。
事件はもちろんかなりショックではありましたがそれ以上にネットの犯人擁護派の多さにすごく悲しくなりました。
他の事件へのコメント欄はとてもまともな事を書いている人でもこの事件に関しては犯人への理解を示す発言をしているのです。
私は重症心身障害児者施設で働いています。
私の勤める部署は利用者の殆どが人工呼吸器を装着し経管栄養で排泄はオムツ、意思疎通はほぼ出来ません。犯人の言葉で表現するなら心失者と言われてしまう人ばかりです。
それでも私たちスタッフは何かを感じてくれていると信じて沢山声かけをして時には車椅子に人工呼吸器を積んで散歩に行ったりレクリエーションをしたりしています。
私たちの思いがどれだけ利用者に届いているのかはわかりません。正直、無意味な事をしているかもしれないと思う日もあります。
良い表現じゃないかもしれないけど生かされている状態の利用者の幸せってなんなのか生きる意味は何なのかを考える日もあります。
だけど、何故だからといって何も出来ないから不要な存在になってしまうのか。そんな事を多くの人が同調するのか…家族や私たちが利用者を大切に思う気持ちからしているケアは一体何なのかと悲しくなりました。
また、「生んだんなら最後まで家で責任持って見ろよ。面倒見きれないから施設に預けたんだろ?おまえだって捨てたんだから殺されたって文句言えない。税金の無駄でしかないから安楽死…」みたいなコメントも多く、これにかなりの数のいいねが…
健康な子はいつか親元を巣立っていきます。だけど障害が重度であればそれは永遠に叶いません。体だけ大きくなって介護の負担は増えるのに親は衰えていきます。更に自分の親の介護問題等も出てきます。子への愛情はあったって24時間365日何十年も続く介護は親だけで抱えるのは無理があるのに…
そりゃ、家で看るのが一番かもしれないし多くの親はそれを望んでいて本当にギリギリまで頑張ってショートステイさえほとんど利用しない親がいるくらいです。世間がこういう考えじゃきっと当事者は数えきれないくらい辛い思いをしてしまう…
障害は先天的な疾患だけではなく、交通事故、溺水、誤飲による窒息等原因は様々。明日は我が身のはずなのに…
私は自分の子が事故等に合ったら後先考えられずに「命だけは助けて」と言うと思います。その先の壮絶な介護を知っていても「もういいです」なんて言えない。
だけど、いざ介護が必要になったら私は弱い人間だから人に助けてもらわなくては親子共々潰れてしまうと思います。
人に助けてもらう事がそんなに行けないことなのかな…
人に助けて貰いながらも生きていたいあるいは生きていて欲しいと願う事はそんなに非難されることなのかな…
私たちの仕事は病気や障害を抱えた人がなるべく心地よく生きられるようにお手伝いする事なのにそれさえも否定されている気がしてなりません。
まとまりない文章&長文ですみません。なんかモヤモヤ悲しくなってしまったので投稿させてもらいました。
経管栄養介護施設家族